13. シーサーの色

『かぎやで風節』
上下の綾門 関の戸もささぬ
治まとる御代の しるしさらめ

<歌意>
守礼門と中山門は関の形をしていても戸を閉じることなくいつでも開放されている。
これは御代が平和に治っているしるしで、誠にめでたいことである。

「綾門(アヤジョー)」とは「美しい門」という意味で守礼門は「上の綾門(ウィーヌアヤジョー)」、中山門は「下の綾門(シムヌアヤジョー)」と称されています。守礼門は1958年に再建され、現在では観光名所となっています。中山門は現在の首里琉染付近にありましたが、1908年に老朽化のため取り壊され現在では首里琉染の入り口に跡地として石碑と木板があるのみとなっています。

この曲では、この守礼門と中山門のことを「上下(カミシモ)の綾門」と表現しています。この二つの門の特徴は、関の形はしていても戸を閉じることはなく常に開け放されています。それは御代が平和に治っているというしるしであり、平和世を喜ぶ当時の人々の心情が伝わってきます。

守礼門をくぐり抜けて首里城へ向かうと、最初に歓会門があります。その歓会門入り口の左右には獅子が鎮座しています。さらに進むと瑞泉門があり、そこにも左右には獅子が鎮座しています。その他にも首里城には小さく様々な形をした獅子が欄干にも配され、王府では権威の象徴とされてきました。獅子は沖縄の方言で「シーサー」と呼ばれ、各地域を見ると集落の高台や入り口などには獅子が鎮座し村を守護する信仰の対象とされてきました。また、民家では瓦葺の使用が認められると、門柱や屋根の上に獅子が配されるようになり、魔除けや守り神としての役目を担ってきました。

この曲で歌われている「治まとる御代」の歌詞からは、国王様の優れた政治手腕による安定、そして獅子をはじめとした様々な守護からくる琉球の平和の様子が想像できます。琉球国に人々の往来を拒む扉が必要なかったのもシーサーのお陰もあってのことではないでしょうか。

琉球古典音楽演奏家 親川 遥

スタジオde-jin

沖縄で採れる琉球石灰岩を中心に使用したモノ造りをしています。今は、手掘りで琉球石灰岩の石獅子を制作しています。
本来は災いを防ぐために村落の入り口に琉球石灰岩でできた石獅子を設置していました。
明治22年に赤瓦使用が市民に解禁され民家に屋根に獅子が作られるようになりました。それまでは赤瓦の建築は士族階級にしか許されてなかったのでシーサーは富の象徴でもあったわけです。